2000.7.21の記事です
わたしは 植物の精霊の姿を見たことはありません。
本当に妖精のような姿で現れてくれたら嬉しいと思いますが・・・
(後註:2002年11月10日のお誕生日についに妖精との出会いがありました!)
わたしの場合 直接植物の意識と波長をあわせることでその意識とコンタクトします。
波長を合わせるといっても特別なことをする訳ではなくって
ただ「美しいなー 大好きだナー」と感じるだけなんですけれど・・
そうすると 植物たちが話しかけてくれることもあるし
(ほとんどの場合声で聞こえるというより 概念を受け取るというカタチです)
ただ愛のバイブレーションを送り返してくれるだけのこともあります。
そんな時 植物たちと自分との間をエネルギーが循環しているのを感じて
素晴らしい高揚感、本当に景色と自分が一体になった感覚を味わいます。
はじめての出会いは やはり4年ほど前(1996年ごろ)になります。
観音さまみたいに優しい年上の友人が
フィンドフォーンに行って わたしにおみやげにとフラワーエッセンスを買ってきてくれたのです。
「スピリチュアル・マリッジ(聖なる結婚)」と名づけられたエッセンスです。
Oリングテストをしたら わたしにはこれがぴったりだったのだそうです。
この聖なる結婚とは 自分自身の中に存在する男性性と女性性の統合を意味しています。
まさにわたしには うってつけだったかもしれません。
受容・感覚・イメージといった女性エネルギーに比べて
行動・理論・実現と言った男性エネルギーは
わたしの中で抑圧されているように感じていたからです。
エッセンスといっしょにマリオン・リーさんという方の書いたレポートのコピーもくれました。
ちょっと 抜粋してみますね。
一体性(ワンネス)
まずはじめに一体性(ワンネス)と言う考えを理解してください。
それは本当の意味での分離や孤立といったものは、ありえないということ、
この世に存在するものはすべて、 その内部で、一つの生命の流れを共有しているのだという考えです。
こうしてすべての創造物は一体であるという事がわかれば、
意識の人間的な次元を超えて、広範な生命の領域とじかに接するための技術もおのずと明らかになってきます。
この技術を私たちはアチューンメントと呼ぶのです。
一見私たちの外部にある,高位の「生命」とコミュニケーションをとるためには、
ただ自分の内部に、それに相当する存在を発見し、波長を合わせればよいのです。
そこには分離も孤立もなく、私たちは高位の「生命」と本質的には一体なのだと気付きます。
そしてこうした一体性を私たちは現実として受け入れます。
私たちはアチューンメントの実践をとおして、
広範な高位の生命領域と密接にコミュニケーションが取れることに気付きます。
縦の関係では、より高度の領域と、
そして横の関係では、われわれの周りの人たちや、
自然の中の様々な生命体とスムーズにコミュニケーションがとれるようになるのです。
アチューンメントとは、対象との一体化によるコミュニケーションであり、
一体化の豊かな恵みを認識することで成り立っているのだといっていいでしょう。
わたしはこの文を読んだとき その内容の美しさにしびれてしまいました。
そして直感的にここに書いてあることが真実だとわかったのです。
わたしは 「スピリチュアル・マリッジ」を数滴舌下に含むと 庭に出ました。
ちょうど 桜の季節で お隣にあった素晴らしい桜の木がまさに満開でした。
わたしは桜吹雪の下にいすをだして座りました。
本当に美しい春の日で 桜吹雪を浴びながら わたしは心から幸せな気分になっていました。
その桜の木をわたしは大好きでした。
意識を向けたその時 桜の木が話しかけてきたのでした。
本当に妖精のような姿で現れてくれたら嬉しいと思いますが・・・
(後註:2002年11月10日のお誕生日についに妖精との出会いがありました!)
わたしの場合 直接植物の意識と波長をあわせることでその意識とコンタクトします。
波長を合わせるといっても特別なことをする訳ではなくって
ただ「美しいなー 大好きだナー」と感じるだけなんですけれど・・
そうすると 植物たちが話しかけてくれることもあるし
(ほとんどの場合声で聞こえるというより 概念を受け取るというカタチです)
ただ愛のバイブレーションを送り返してくれるだけのこともあります。
そんな時 植物たちと自分との間をエネルギーが循環しているのを感じて
素晴らしい高揚感、本当に景色と自分が一体になった感覚を味わいます。
はじめての出会いは やはり4年ほど前(1996年ごろ)になります。
観音さまみたいに優しい年上の友人が
フィンドフォーンに行って わたしにおみやげにとフラワーエッセンスを買ってきてくれたのです。
「スピリチュアル・マリッジ(聖なる結婚)」と名づけられたエッセンスです。
Oリングテストをしたら わたしにはこれがぴったりだったのだそうです。
この聖なる結婚とは 自分自身の中に存在する男性性と女性性の統合を意味しています。
まさにわたしには うってつけだったかもしれません。
受容・感覚・イメージといった女性エネルギーに比べて
行動・理論・実現と言った男性エネルギーは
わたしの中で抑圧されているように感じていたからです。
エッセンスといっしょにマリオン・リーさんという方の書いたレポートのコピーもくれました。
ちょっと 抜粋してみますね。
一体性(ワンネス)
まずはじめに一体性(ワンネス)と言う考えを理解してください。
それは本当の意味での分離や孤立といったものは、ありえないということ、
この世に存在するものはすべて、 その内部で、一つの生命の流れを共有しているのだという考えです。
こうしてすべての創造物は一体であるという事がわかれば、
意識の人間的な次元を超えて、広範な生命の領域とじかに接するための技術もおのずと明らかになってきます。
この技術を私たちはアチューンメントと呼ぶのです。
一見私たちの外部にある,高位の「生命」とコミュニケーションをとるためには、
ただ自分の内部に、それに相当する存在を発見し、波長を合わせればよいのです。
そこには分離も孤立もなく、私たちは高位の「生命」と本質的には一体なのだと気付きます。
そしてこうした一体性を私たちは現実として受け入れます。
私たちはアチューンメントの実践をとおして、
広範な高位の生命領域と密接にコミュニケーションが取れることに気付きます。
縦の関係では、より高度の領域と、
そして横の関係では、われわれの周りの人たちや、
自然の中の様々な生命体とスムーズにコミュニケーションがとれるようになるのです。
アチューンメントとは、対象との一体化によるコミュニケーションであり、
一体化の豊かな恵みを認識することで成り立っているのだといっていいでしょう。
わたしはこの文を読んだとき その内容の美しさにしびれてしまいました。
そして直感的にここに書いてあることが真実だとわかったのです。
わたしは 「スピリチュアル・マリッジ」を数滴舌下に含むと 庭に出ました。
ちょうど 桜の季節で お隣にあった素晴らしい桜の木がまさに満開でした。
わたしは桜吹雪の下にいすをだして座りました。
本当に美しい春の日で 桜吹雪を浴びながら わたしは心から幸せな気分になっていました。
その桜の木をわたしは大好きでした。
意識を向けたその時 桜の木が話しかけてきたのでした。
となりの桜の木のメッセージ
私はどんな時も 決して誇りを失いません。
私たちは たとえどんなにみじめに見える状況にあろうとも 誇りを失うことはないのです。
打ち捨てられ 地面にころがっているときでさえも
土に返り 新たな生命連鎖に加わることに 限りない誇りと喜びを感じています。
そして どんなときも精一杯 生命を輝かせています。
あなたがたの世界で使われている言葉の「手を抜く」というような概念は 存在しません。
「比較」も存在しません。
あなたがたが雑草とよぶどんなに小さな花でも 自分自身であることに100%の誇りを感じています。
そこの小さな花にたずねたなら それが真実だといいうことがわかるでしょう。
私のことを高貴な花木と言っていただくことは どのようなときも誇りを失わないからだと思います。
上にも書いたように 言葉でこう聞いたのではありません。
受け取ったそのメッセージは言葉ではありませんでした。
言葉を介さずに直接メッセージの全体が伝わってきたのです。
概念と呼ぶのが一番近いかもしれません。
それを最も近い形に日本語に翻訳したものを載せています。
言葉というのはこのような概念を共有するために
それをより物質に近い低い周波数に置き換えたものである、ということをわたしは理解しました。
おとなりの美しい桜の木は特別誇り高いスピリットの持ち主だったのかもしれません。
わたしは 足元に咲いていた本当に小さな雑草に心を合わせてみました。
驚いたことに その花はわたしの問いかけに応えるように かすかに頭をふるわせたのです。
わたしには その雑草が自分が雑草であることに少しもひけめを感じていないこと
100%そのことに満足して喜んでそこに咲いていることが 瞬時に伝わってきました。
直径5ミリほどのその花は 可憐なエネルギーでした。
個性のようにエネルギーこそ違いますが 誇りに満ち 生きている喜びを表現しているのは 桜の木と全く同じでした。
この日わたしはパンジーやムスカリなど色んなお花とアチューンメントしてみました。
ちょうど2人の人が手を出し合って握手するように
わたしのエネルギーと植物にエネルギーがお互いの方に広がっていって 交ざり合うといった感じです。
ほんとうにすばらしい体験でした。
わたしは毎日 うちの裏の道を散歩していますが この季節 木々の葉が太陽に輝いてほんとにきれいです。
風にゆれてざわざわいうのを聞くのも大好きです。
自分が風景の一部なのか 風なのかもわからなくなってしまうぐらい エネルギーが溶けあってしまうこともあります。
そんな時 純粋に生きている喜びを味わい 何にも持っていなくても すべてが完璧にしあわせだと心から思ってしまうのです。
(なんて安上がりなんでしょう!)
もし 植物がこの世になかったら わたしの世界の輝きは 半分以下になってしまうに違いありません。
私はどんな時も 決して誇りを失いません。
私たちは たとえどんなにみじめに見える状況にあろうとも 誇りを失うことはないのです。
打ち捨てられ 地面にころがっているときでさえも
土に返り 新たな生命連鎖に加わることに 限りない誇りと喜びを感じています。
そして どんなときも精一杯 生命を輝かせています。
あなたがたの世界で使われている言葉の「手を抜く」というような概念は 存在しません。
「比較」も存在しません。
あなたがたが雑草とよぶどんなに小さな花でも 自分自身であることに100%の誇りを感じています。
そこの小さな花にたずねたなら それが真実だといいうことがわかるでしょう。
私のことを高貴な花木と言っていただくことは どのようなときも誇りを失わないからだと思います。
上にも書いたように 言葉でこう聞いたのではありません。
受け取ったそのメッセージは言葉ではありませんでした。
言葉を介さずに直接メッセージの全体が伝わってきたのです。
概念と呼ぶのが一番近いかもしれません。
それを最も近い形に日本語に翻訳したものを載せています。
言葉というのはこのような概念を共有するために
それをより物質に近い低い周波数に置き換えたものである、ということをわたしは理解しました。
おとなりの美しい桜の木は特別誇り高いスピリットの持ち主だったのかもしれません。
わたしは 足元に咲いていた本当に小さな雑草に心を合わせてみました。
驚いたことに その花はわたしの問いかけに応えるように かすかに頭をふるわせたのです。
わたしには その雑草が自分が雑草であることに少しもひけめを感じていないこと
100%そのことに満足して喜んでそこに咲いていることが 瞬時に伝わってきました。
直径5ミリほどのその花は 可憐なエネルギーでした。
個性のようにエネルギーこそ違いますが 誇りに満ち 生きている喜びを表現しているのは 桜の木と全く同じでした。
この日わたしはパンジーやムスカリなど色んなお花とアチューンメントしてみました。
ちょうど2人の人が手を出し合って握手するように
わたしのエネルギーと植物にエネルギーがお互いの方に広がっていって 交ざり合うといった感じです。
ほんとうにすばらしい体験でした。
わたしは毎日 うちの裏の道を散歩していますが この季節 木々の葉が太陽に輝いてほんとにきれいです。
風にゆれてざわざわいうのを聞くのも大好きです。
自分が風景の一部なのか 風なのかもわからなくなってしまうぐらい エネルギーが溶けあってしまうこともあります。
そんな時 純粋に生きている喜びを味わい 何にも持っていなくても すべてが完璧にしあわせだと心から思ってしまうのです。
(なんて安上がりなんでしょう!)
もし 植物がこの世になかったら わたしの世界の輝きは 半分以下になってしまうに違いありません。